日本人がほしかったもの、それがカブだった
欧州へ渡航した本田宗一郎氏らは、モペットにしようかスクーターにしようか?次世代のバイクを模索していたのですが、そこで目にしたものは、小型バイクの扱われ方が国によってこうも違うのか?ということでした。
ここで本田氏らが確信した思い、それは、今よりももっと上を行く新機軸の小さい二輪車という答えだったのです。
モペットでもないスクーターでもない、日本人が今本当に求めているものは何か、ホンダが作るものは、その「本当に求めているもの」が必要だったのです。
この希望を開発の用件としてまとめてみると、エンジンが高出力で静粛性、燃費性能に優れた4ストロークエンジンが好ましいということ、女性も乗り降りしやすいデザインとサイズが必要なこと、クラッチレバーを使用しないシステムの構築、そして、先進的で親しみやすく飽きの来ないバイク、と条件がまとまりました。
当時、悪路が多くこの道路事情を考えて走りということよりも、低速で操作がしやすいエンジンが求められていた時代、そこに4馬力のエンジンをつけるというのはとんでもないことだったのです。
50cc2ストロークエンジンのF型カブ、これは1馬力ですからこれが4馬力となるととんでもない条件というわけです。
3種類の試作品が仕上がってみると
自動遠心クラッチの完成、左手操作が必要ないということはまさしく二輪革命といえる出来事で、エンジンとトランスミッション、更に車体設計などができ試作品が作られてからは、その先、デザインをどうするのかということが問題となりました。
デザインでホンダがこだわったのはタイヤのサイズ、低速でも安定走行させる新しいエンジンを活かしたい、そんなタイヤを設置したかったのです。
そこで生まれたのが、自動遠心クラッチでした。
タイヤのサイズによって車格が決まる、いかに日本人のサイズに合わせていけばいいのか、これをクリアすれば、本当に日本人がほしいバイクになると確信し、17インチのタイヤに決まります。
最終的にはこのタイヤの大きさがスーパーカブのスタイルを決めたのです。
しかし当時17インチのタイヤが存在せず、仕方なく18インチのタイヤを1インチ分切り取り新しいインチのタイヤを作ったというから驚きです。
こうしてこだわりぬいて作られたスーパーカブは、絶対に売れると確信できるものとなっていました。
1958年8月、ホンダスーパーカブC100が発売されたのですが、現在この当時発売されたスーパーカブを見ても、本当に素敵なデザインで、古さをまったく感じません。
というよりも、今のバイクのデザインよりも素敵!と思ってしまうデザインです。
ホンダのこだわりとあくなき探究心から生まれたホンダの名作、それが、スーパーカブです。